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略称はGL

ガールズラブという言葉を初めて知った。
世界は常に進化している。

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2009.07.28 | Comments(0) | Trackback(0) | 日々のつれづれ

ハリーポッターの壮絶なネタバレがあります

ネタバレ注意









原作者であるローリングによれば、ダンブルドアはゲイらしい。
しかし7巻に書かれたグリンデルバルドに対するダンブルドアの思いは、単なる恋愛感情というには色々な思いが込められすぎているように感じた。もちろんローリング自身もその複雑さに関してはいくらか言及しているようだし、そもそもダンブルドアの複雑な心理状態については7巻中に大量に書かれているので実際に読めばそれで良いのだが、こういうインタビュー中で説明する時にそれをゲイと一言で言い表すんだ、ということに驚いた。人と人との繋がり、キャラクターの感情表現について途方も無い蓄積を持つ日本ならば、たとえジョークだとしても少なくとも原作者自らがこういう単純な表現を行うことはないだろう。実際の描写より簡素になるとしても、もう少し言葉を選ぶんじゃないかと思う。そう色々考えてしまうのは他人との関係性をいつも重要視する日本人特有の感性なのかもしれない。

2009.07.27 | Comments(0) | Trackback(0) | 日々のつれづれ

自分に伝えたいことを超えて

自分語りは、いつまで経っても自分語りに過ぎない。
その壁を乗り越えるにはどうすればいいのか、まだ答えが出てこない。
暇つぶし、ストレス解消を超えた何かの原動力にしたいのだけど、スタートが遅すぎるせいかなかなか難しい。

2009.07.26 | Comments(0) | Trackback(0) | 日々のつれづれ

できること、できないこと

mixiの転載だけど、こちらにも書いてみる。

出来ることをするという言葉が好きなのですが
時にマイナスの意味合いもあるので簡単には使えません。

自分に出来ることというのは時に自分の限界の中でしか物事をこなさない、
ということに繋がるからです。

しかし、最近さらに気づいたのですが、
世の中で求められている大抵のことは、
出来ることのように見えて案外出来ないことが分かってきました。
というか、そうでないとやる意味がないのですね。
これが世の中生きていくことの難しさなのか、とか分かったような言葉も使ってみたり。

そして、この年になってから他の人と比べて出来ないことは
もう単純には出来ることでなく、しばしば一生出来ることのないものであったり
逆に他の人より出来ることは
自分で思う以上に向いていることであったりする。

当たり前すぎて馬鹿らしいと自分でも思いますが、恐ろしいほど現実を思い知らされます。

自分に向いていること、向いていないことがはっきりしてくると
手段をアレコレ考えるよりは、
目標だけ立てて、それを達成するための最短のルートを
今の自分の適性から判断して突っ切ったほうが楽です。

だから重要なのはいかに手段に捕らわれず目標を見極めるか、ですかね。
そんなことをぼーっと考えながら一日過ごしました。

2009.07.26 | Comments(0) | Trackback(0) | 日々のつれづれ

馬鹿馬鹿しい本音

 人の意思を汲み取るのは得意だけれど、人に意思を伝えるのはあまり得意ではない。
自分のしたいことを伝えることはできるんだけど、自分の言葉を、自分の感情を伝える術を失っている。普段の生活の中で何も起きなくてもストレスをためてしまう原因はここにあるんだと思う。だけどそれを伝える方法が分からない。自分ひとりではどうにもできない。誰か助けてといってもその気持ちを伝える方法が常にないのである。相手が無理やり気持ちを汲んで行動してくれるような時代はもう終わっている。自分から動き出さなければ何も始まらない。だけども自分ではどう動いていいか分からない。この矛盾をどう解決すればいいのか分からずにここまで2年間やってきた。もう限界なんて言葉はまだ吐かなくても大丈夫だけど、それがずっと続くという保証がどこにもない。自分自身でさえ明日の安心を保証してあげられない。信頼できない。自分のことが。もう終わりにしようじゃないか、そんなことは。そう言ってあげるのは簡単だし実際できると思うんだけど、その一歩先が何も見えない。そんな中で湧き出る言葉に何の価値があるというのか。その価値すら信じられない。何も信じられない。こんなにも信じたい自分がいるのに。はちきれそうなほど生きたいと願っているのに。なんでいつもこうなってしまうのか。
 スパゲティを食べる。腹が膨れる。大分落ち着いてきた。このあたりで自分が世の中に絶望して自分や人を殺めるほど妄想にとらわれる人間でないことを改めて思い知らされる。そっちの方がもちろんありがたい。それと同時にこれを書く気力がなくなってくるあたり、自分は本質的にものを伝えることが嫌いな人間なんだと実感してもいる。そもそも好きだったらこんなに引きこもっていないというか、引きこもってることにもっと意味が持てると思う。今やってることが単純に人と会いたくない、一人でいたいというただそれだけだから。伝えること、表現するのが好きなら一人で行動したいから一人になるというシンプルな理由になると思う。それがシンプルでないのが自分の最大の問題である。これがあるからこそ自分は他のことに目を向けられない一方で、この文章を書く原動力、そして生きていく理由そのものにすらなっているのがさらにやっかいである。
 いまふと気づいたのだけど、これは自分に依存しているということなのか?自分に依存しているというのはひどく矛盾した表現に聞こえるけれども、自分という存在を仮想化しつつ、その仮想化した自分自体に依存するという全く自己完結した状態になってるんじゃないだろうか私は。これは全く他人には害は及ぼさないけども、自分という枠の中で生きている以上何も先に進まず、何も変化が起きないままである。一瞬自分という殻の中に閉じこもっているというありきたりな解釈をしてしまいそうになったが、これは少し違うのかもしれない。自分の世界のみ目を向けるというだけでなく、依存しているというのが非常に重要なポイントで、この言葉に私は納得してしまうのだ。これはどういうことを意味しているのだろう。
依存しているというのは誰かに何かに頼っているということ、自己の存在理由を自分で引き受けず外部に委ねてしまうということだ。自分の生きる力を他人の生きる力と重ねてしまうことだ。生きる意味、現在の人生目標を人まかせにしてしまうなんて生易しいものではなく、本質的には他人の生きるエネルギーに寄生している、というぐらい非常に危ないことではないかと私は思っている。他の人に生きるエネルギーを分けてもらう、自分が大変なときに他の人を力を借りるということはヒトとして全く真っ当な方法である。それは生きるための智恵であり、正しく賢い方法である。だけどもその他人の力だけで生きるというのはどうだろうか。仕事にしろ遊びにしろ、人間一人ではできないことのために他の人の力を借りるのではなく、他の人のあり方と自身のあり方を同じものとみなしてしまうのは決して良くないことだと思う。あなたはあなたで、私は私。そういう人間関係こそが正常で、あなたとわたしがまったくの同じになるような状態を、少なくとも一生続けることは自分を傷つけるということにつながりはしないか。自分という要素を無理やりバラバラに解体し、それを相手に合うよう組み換えているということではないのか。
 ここでまた少し疑問が出てきた。自分はどこにいるのか。自分の気持ちがたとえ相手と同一視されようとも、たとえば自分の肉体自体がこの世界にあれば自分は存在しているという立場ならどうだろう。自分の肉体さえこの世界に存在していればそれだけで自分の存在が保証されている。あとは自分の気持ちがどうあろうと自分自身は確かにここに存在している。このような唯物論的結論に至れば相手に依存していようが依存していまいが同じ、たとえ自分の肉体は全て相手のものと捧げてみたとしても、肉体がそこにある限りそれだけで相手と自分は違う存在。自己は永遠に自己であり、他者は永遠に他者である。その前提を覆すことは不可能と言える。
こうすればものごとは酷く単純なものとなるのか。自分は自分だ、自分はここにいるとどれだけ叫ぶ必要もない。ただそこにあるだけで自分はいる。それだけが自分を保証する全てとなりうる。それはとても穏やかな結論だ。そうすると自分に依存していようがいまいがどうでもよいということになるが、しかしそれは何かが違うと自分の頭の中で声が響く。なんだろうか。
 それは自分の肉体の保証すらも時に失われる、という現実的問題だ。人間の体は永遠ではない。死というものを実感するには私はまだ若い、といってもいくつか大きな病気をしているから他のひとよりはそういうものに対する実感は持っていると思うが、それでも老いて死ぬ、肉体の限界時間をほかでもない自分自身にまざまざと見せ付けられる、そんな年ではまだ無い。だけどもこの人体という非常に高度な組織的構造を持った物体は、ほんのちょっとの変化で簡単に狂ってしまうのだ。人体は外的内的問題を非常に複雑かつ精密なやりとりで常に平衡状態に保ち続けることができるのだが、これは静的ではなく動的な平衡である。最終的に一本線に戻ってきたとしても、そこには大きな波もあれば小さな波もあり、ともすれば大きな波がより大きな波になることだってある。目に見えなくとも人は常に変化している。調子の悪い時だってあるのだ。
少し回りくどい話をしたが、自己の存在を根底で保証してくれる肉体ですら、常に変化しているということだ。だからこそ自己の存在は時に揺らぐ。これを生物学的に肉体の変化が脳内刺激やホルモンの変化に繋がると解釈してもよいし、肉体と精神の直結から肉体の変化がすなわち精神の変化となりうるのは当然のことだとさも普通のことのように受け止めても構わない。とにかく肉体に自己の存在を委ねたとしても、それは自己の存在を常に保証し続けてくれるわけではない。不安を呼び起こされる可能性は常に存在しているのだ。
 だからこそ人は肉体だけに頼らない。色々なものに自己の保証を求める。その過程で結果として誰かに保証を求めすぎるようになり、それが結局他者への依存に繋がる。自分に依存しているというのは、自分という存在に保証を求めすぎているのだ。肉体でないカタチだけの自分に。自分の意識の中にしか存在しない自分に。自分の思いしだいでいくらでも変化しうる存在に。そんなもの何の保証もしてくれないじゃないか。それなのにどうしてこうすがりついてしまうのか。そんなに他のモノが怖いか。苛立ってもしょうがないが、しかしどうしてもそれは自分の本音なので思わず書いてしまうのだが。
 ここまで書いてきて、自分があんまりにも自己の保証にこだわっていることに思わず笑ってしまう。表情というより心の奥底が明るくなるような感じ。自分がこんなにもちっぽけなことに捕らわれているなんて。それほど自分が変わるのが怖いのか。ここまでくると、今の自分が抱える問題が自分が自分でなくなるというのが怖いなんて高尚な理由で無い気がする。単純に自分の現在が嫌なだけか?変わるのが怖いんじゃなくて、変わる方法が正しいか、変わる方向が正しいかを保証してほしいだけなんじゃないか。だから誰かに変えてほしい、失敗したくないし、失敗したときの責任を誰かに押し付けたいだけなんじゃないのか。これは本当にちっぽけな悩みだな。普通に人に話したらキョトンとされるか呆れられるか、はたまた無視されるか。この年で自分は本当につまらないことに悩んでいるんだな。ちょっとこれは気が滅入る。
 延々と馬鹿馬鹿しい、けれどどうしようもなく本気なことを書いてしまった。とりあえずいったん筆をおく。

2009.07.25 | Comments(0) | Trackback(0) | 日々のつれづれ

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