劇場ドラをみてきた。
細田守への、そしておそらくは芝山努への一つの解答。
アニメーションでつたわること。アニメーションでつたえられること。
絵を、そしてフィルムを越えて。
そこにあるものを超えて、ここにいる私の心を揺さぶるなにか。
これは映画ではない。劇場アニメーションだ。
……鼻水たらして泣いてしまった。コメント返しはちょっと待ってください(苦笑
2008.03.31 | Comments(0) | Trackback(0) | アニメ・アニメーション

少しずつ、再始動中
細田守への、そしておそらくは芝山努への一つの解答。
アニメーションでつたわること。アニメーションでつたえられること。
絵を、そしてフィルムを越えて。
そこにあるものを超えて、ここにいる私の心を揺さぶるなにか。
これは映画ではない。劇場アニメーションだ。
……鼻水たらして泣いてしまった。コメント返しはちょっと待ってください(苦笑
2008.03.31 | Comments(0) | Trackback(0) | アニメ・アニメーション
『タツノコファイト』というゲーム中のOPと、ゲーム内オリジナル作品『電光石火ヴォルター』のOPを切り貼りして、ソウルテイカーのOPにあわせたMAD。
個人的には、新房昭之の魅力が最もわかりやすく伝わるMADだと思っている。
端的に言えば、絵画的なレイアウトと、BL影を用いた極彩色の色使いの中、山下調でバリバリ動かすのが本来の新房演出の魅力だと思う。
この場合の「絵画的レイアウト」というのは、実写のような「カメラのレンズを通してみる」ことを計算していないレイアウトだ。レンズによるパースの歪みを計算して画を作るのではなく、レンズパースの情報が織り込まれた絵を描く。レンズによる歪みは前提ではなく、欲しい絵に必要な要素の一つに過ぎない。
画ではなく、まず絵を見せるのだと。そういう姿勢が貫かれているように思う。レンズを気にする必要のないデジタル撮影に切り替わったあとも、直接PCをいじることなくその能力を発揮しているのは、そのためではないか。
新房自身は山下を「自分の中で最高のアニメーター」と言ってるから、動きだけでなくBL影の使用もそこから始まってミニョーラに行き着いたんじゃないかと思っていたんだけど、よく考えてみれば、そもそも80年代のアニメブームの中で、いわゆる金田系の作画をする人たちがBL影を使うようになったのがミニョーラの影響かもしれない。このあたりはリアルタイムでアニメブームを経験した人しか実際のところはわからないだろうなあ。
以前、新房昭之の止め多用のルーツをエヴァに求めているエントリをみたことがあるけど、エヴァの止めは、あくまでフィルムの発想から来たもののように私には思える。もしくは、幾原邦彦のように演劇から来たものか。
ただ、止めの絵のセンス自体はともかく、止めを使っていく理由はここ一番で枚数使って動かすのに枚数を抑えるため、っていうのも計算してはいるだろう。最近見返したTV版ヤマモト・ヨーコの1話は、Aパートを歪な構図やパースの止めでひたすらもたせていたが、あれはBパートの戦闘シーンで大量に枚数を使うための処理にも思えた。幽白の担当回であれほど枚数を使ってるのだから、動かすことが嫌い、ということはありえないだろう。
そういえば今石洋之も山下系なのだけど、どちらかといえば私は新房の方が好きかな。なんとなくだが、この方向性の違いは、今石洋之が動きそのものに興味を覚えたのに対し、新房昭之はBL影などのグラフィカルな部分に惹かれたせいでは無いかと思う。
余談だが、監督としての今石洋之と新房昭之の最大の違いは、萌えを理解できるかできないかじゃないだろうか。
新房自身はアニメスタイルのインタビューで、「萌えは理解できない」っていってたけど、ぱにぽにだっしゅのファンブックで『まろまゆ』の妙子が好きって言ってたのを見て、深層心理内では理解できてるんじゃないか、などと思った。
2008.03.21 | Comments(2) | Trackback(0) | アニメ・アニメーション
ブログを書き込んでいた図書館が蔵書整理中だったのでしばらくお休みしていました。何も書かずにいきなり更新が途絶えるブログですみませんorz
今は所用でまた金沢の下宿先に戻っています。といっても今日中にまた実家帰りますが。
来週までにはきちんと戻るつもりだけど、いろいろやることが残ってたりするのでもう少しかかるかも。
で、実はその用事のついでに映画を観てきました。例の『ライラの冒険 黄金の羅針盤』です。
……つまらない。ホントつまらない。
脳内つまらない度ランキングが、
劇場版AIR>>種>>>>>>>>>>ブレイブストーリー≒ライラの冒険>>>種死
になりました。下は一応あるにはあるのです……
『ブレイブ~』と『ライラ~』がほぼ同列なのは、千羽由利子の手がガンガン入ってる序盤30分と斎藤千和ボイスの猫キャラの分が、ライラ役のダコタ・ブルー・リチャーズとコールター夫人役のニコール・キッドマンが良い感じだったせい。特にダコタは思ったよりも声が低めで、13歳にしてかなりのビッチぶりを発揮してて良い!
「私もライラも好奇心が強いの」新星ダコタ&監督が語る『ライラの冒険』の魅力
>私はとても悲しいシーンや、(自分が演じる)キャラクターがすごく腹を立てているシーンを演じる方が好きなんです。
うん。ライラの役にぴったり。
冒頭男の子をホラ吹いて恫喝するシーンは迫力があっていい。二コール・キッドマンは言わずもがな本物のビッチだし。これほどビッチキャラが似合う映画もないだろう。原作児童小説なのに(笑 ダコタも成長したらこんな感じになるのか……
個人的にそこだけは評価できるんでクソ映画と言い切れず余計虚しさを感じる。
ちなみにあくまで原作ファンとして映像に文句つけるとすれば3つ。
1. あの世界におけるダイモンの重要性が十分描かれていない。
あの世界ではダイモンは正真正銘自分の分身なんだよ!
それがきちんと画で伝わってこないから、敵のやってることは物凄くおぞましいことだっていうのがピンとこない。大人が恐怖におびえるシーンとか飛ばしてる……
2. 真理計を使う描写を、ただ映像で見せるだけという演出で片付けてしまった。
というかそもそも使い方違ってるし。真理計の周りにある記号を読み、それをライラが独自の感性で読んでいって真実を知るのが面白いのに……
視覚的に見せるなら、せめて細田守ぐらいしてくれ……
3. イオレクが弱そう
いやこれは私がイオレク超好きだからなんだけど、せっかく別世界で、知性もあり、かつダイモンをもつ人間とは別の存在という位置付けなんだから、単に本物の熊を参考にするだけじゃなく、もっと描写を工夫してほしかった。クマの王の部屋とか、小説読むとまるで『千と千尋の神隠し』のカオナシのシーンくらい汚らしいはずなのに!
そうそう。人が死んでダイモンが消えるときのエフェクトが、大したものじゃないんだけど、ちゃんと合戦シーンでもそれが忘れられてないのはファンとしては良かったと思う。血の描写の制限に戦々恐々としなくてもいいし。まあダイモンの意味合いがマトモに語られていない時点でどうでもいいか……
あ、ストーリーですか。ストーリーはもう何も言いません。あのオチに絶望した!!!!
あと期待できるのは次の『神秘の短剣』から出てくるウィル・パリーの子役次第か。それによっては次も観る。原作ファンだからお布施も兼ねて。
そういえば、初っ端の「特別監修 村山由佳」には吹きました。村山由佳好きなんで
ググるとこんなのも。
映画『ライラの冒険 黄金の羅針盤』村山由佳×小谷真理特別対談
まあ水夏も好きで天使の卵も好きなわけです。(この辺分かる人は分かるかな。)
2008.03.17 | Comments(0) | Trackback(0) | 日々のつれづれ
録画してあったガンダム00第21話「滅びの道」を観る。
久しぶりに観たガンダム。最後に見たのは千和声の巨乳娘が酷い目に遭う話。
現代の人間社会においては、両足付随よりも手が使えないほうが大変だと思う。手を使った作業の重要性が大きいし。「絵」としてみりゃそう対して変わらないというか、車椅子や杖歩きは描く労力やそもそもキャラを動かしづらくなるから避けたというのもあるんだろうか。水島精二だし。あんな感じに手首から先を失うキャラってオタクジャンルの中では、自閉症少女や車椅子少女よりはマイナーだと思うけど、実際問題相当不便だよなあ。そういう物事を扱う必然性というか、必然性がない暴力を描くシーンではあったんだけども。
閑話休題。
で、それ以来時間忘れててみてなかったので、色々新キャラや新MSが出てきて驚く。こんなに話進むアニメだったっけこれ?(笑
1クール過ぎても一向に話が進む気配が無いから、折り返してからはホント飛び飛びで観てた。ようやく刹那・F・セイエイとロックオン・ストラトスの顔と名前が一致したぐらい。あとスメラギさん。
今日観た限りではようやく連合軍…といってもいくつかあるんだっけか? それら地球の各国家がガンダムに対抗できる技術を持ってフルボッコにされないようになってたし、ずっと古谷徹声の参謀を連れてた謎の男が、ソレスタルビーイングの中枢コンピュータみたいなのを占拠したり、記者やってた姉ちゃんがいつの間にか殺されてたりと着実に話は進んでいる感じ。刹那は相変わらず姫さまの色香に惑わされてるけど。そういえば姫さまどうなった!?
バカップルは序盤から各人の妄想の中で殺されまくったりと報われないフラグが経ってたけど、これからどうなるんだろうか。弟が姉の意思を継ぐとか? だとしたら第2シーズンは3年後とかになるのか?
このアニメ、多分土6史上一番撮影や特殊効果が凝ってるアニメだと思うんだけど、その中でも今週は特に各種カメラワークやエフェクトにこだわりが見られた。ラストの戦闘シーンとか、カットごとに複雑なPANついてたし。ただでさえ線の多いメカばかりで、原画も20人ぐらいいるのに、よくやるなあ。副監督3人と撮影監督に補佐がついてるのは伊達じゃないということか。まあコンテも3人いたけど。ただその内の一人(ヤマトナオミチ)がちゃんと演出処理もこなしてるのは流石。ガンダムはなるべくコンテ・処理ちゃんと同じ人が担当するようにしていて、やっぱりその方が演出意図を隅々まで伝えやすいんだろうな。とか思ったり。
最後にギアスR2のCMが入ったんだけど、爆発とかのエフェクトや各種ナイトメアはよく動く感じだけど、全体的な画面のゴージャス感というか、密度はガンダムのほうが勝ってるかな、と思う。画面が少し薄っぺらく見えてしまう。どちらもガイナ見たくここ一番の話数に戦力集中というよりは、全体的な底上げでクオリティを保つタイプなので、結局撮影や特殊効果の差だろう。
ゼーガペイン見ても思ったけど、こういう効果を丁寧にいれることで、やっぱり画面の密度って全然違ってくる。ハイビジョンになって画面が大きくなるとなおさら。
作画ファンとかとかで「撮影で見せるアニメは邪道」とか主張する人がいる。そりゃあポケモンチェックに引っかかったための修正とかは自分も嫌だけど、かといってそれが無く上手い作画だけで成り立つのが本当のアニメだとかいうのも違うと思う。インタビューとか見てると、エフェクトいれたり、デジタルならではのカメラワークを踏まえてレイアウト切ったりタイムシートつけたりしてる人も結構いるみたいだし。これからアニメーターだけじゃなく、作画ファンもアフターエフェクトの知識必須とかなってくるのかもしれない。そこまでやるなら何か作品作れよって話だけど。
でも残念ながら、一話ごとの話の密度と引きの上手さは絶対的にギアスのほうが上なんだよなあ。
ガンダムもようやく次が楽しみになってきた感じだけど、正直このペースは第1シーズンと第2シーズン、二回最終回が必要なアニメのものじゃないよ。そういう作り方は圧倒的にギアスのほうに軍配が上がる。普通に全52話だったらもうちょっと落ち着いて観られるのに。
アニメ誌に載ってるメインスタッフを見る限りでは、ギアスR2は大河内一楼が全話脚本やるっぽい。吉野弘幸がマクロスにいっちゃったからキャラの動かし方の選択肢は減るかもしれないけど、もともと谷口悟朗は脚本家は単独の方が好きだし、あれだけの風呂敷を畳むんだから、かえって一人のほうが破綻が起きなくていいかも。
あとはガンソードみたく、話の収まりは良いけど、それでストーリーのドライブ感が削がれないって感じになるといいな。
2008.03.03 | Comments(0) | Trackback(0) | アニメ・アニメーション
光瀬龍『百億の昼と千億の夜』を読む。
気づいたら下宿の本棚に転がってた一冊。買ったことすら忘れていた。大学生協の古本市で買ったような。
私はそれほどSFは読まないので、買ったときは特にタイトルとか気にせず、その場の雰囲気で選んだろう。あとで著者の光瀬龍が有名な人だと知って驚いた。
いわゆる「SF的スケール」に満ち溢れた作品。SFというジャンルは、たとえその作者がアメリカ人であろうが日本人であろうが、得てして普通の小説ジャンルよりも西洋的世界観と東洋的世界観がない交ぜになりやすいように思う。その原因を、産業の急激な発達による自然破壊から地球環境を守るための取り組みや、二度の世界大戦、それが終了してもなお各地で相次ぐ紛争のなかで世界に澱のように横たわる倦怠感の根本要因を考えていく上で浮上した西洋哲学や価値観の矛盾とそれを打破するための東洋哲学・宗教の導入に求めるのか、もしくは――SFというジャンルならとりわけ重要な要因足りうるだろうが――20世紀のはじめに生まれ、その後の物理学、ひいては自然科学全体の発展、そしてその思想の根底に疑問を投げかけることになった量子力学の発見と、不確定性原理の解釈論に求めるのかは一概に決められる問題ではないだろう。しかし、両者はいずれも今私たちの目の前に厳然と存在する問題ではある。そして自然科学・人間科学・社会科学など学問という思想・様式を、作家の想像力をもってして縦横無尽に張り巡らせて構成されるSFというジャンルにおいて、それらから生み出される作品が、時に作者が意識せずとも東西の思想が垣間見えるようになるのも至極当然のことであるともいえる。逆にいえば、これら相反する根本原理を持つ二者の思想を融合させるのに、SFというジャンルは非常に相性が良い。というよりSF的アイデアやスケールを用いなければ、現時点の我々の知識では、とてもこれら両者の思想を合わせ理解することはできないのではあるまいか。そしてこの作品もまた、SFという西洋文化発の文化に東洋的思想を織り込もうとした作品であった。
この作品は「寄せてはかえ」す、海の描写より始まる。海は百億、千億の昼と夜、くり返し変動しつづける諸行無常の象徴である。そのあと創世記の地球における生命の誕生が壮大なスケールで描かれつつ、一方で海はその間もただ寄せては返すことをくり返し、また昼がはじまり、また夜が来る。
生命が誕生した後、太古の海で生活するある生物が見た謎の山脈。一朝にして海の底に沈んだ伝説の大陸アトランティスを追い求める稀代の哲学者、プラトンが辿りついた謎の集落エルカシア、そこで彼が見た過去の超王国滅亡の光景。国を、部下を、父を、そして愛する妻と子を棄ててまで救いを求めた悉達多が目の当たりにした、レイ(りっしんべんに刀)利天をはじめとした遥か光年を経た彼方の天上界――人の世を超越した極楽を襲う未曾有の危機と、五十六億七千万年ののちに人類を救済するはずの《弥勒》の存在に疑問を抱き、戦い続ける少女阿修羅王との出会い。辺境植民地エレサレムで最後の審判を解き、大天使ミカエルを見たというナザレの大工イエス。その在り様にただならぬ不安を感じる総督ピラトゥスとその部下セイント。そして裁きが下り、刑が執行されるその瞬間にイスカリオテのユダが見た、ゴルゴダの丘の奇跡。そして舞台は人間文明があとかたもなく消え去った遥か未来の地球へと移り、人類の、そして銀河系全生命の真実があきらかになる――
繰り返すが、こうした途方もない壮大なスケールで物語が展開するのは、SFという特異なジャンルならではのものだ。だからこそ、こうしたSF的スケールに慣れていない人にとっては、最初はひどくとっつきにくいと思えるだろう。私もそれほどSF経験があるわけではないが、例えばグレッグ・イーガンの『宇宙消失』や『ディアスポラ』を読んだときはそのように感じた。特に『ディアスポラ』に至っては、数学の専門教育を受けない限りは(それも少なくとも数学専門の学科で学ばない限りは)容易に理解できないほどの専門用語や概念の波に何度も溺れそうになった。それでも最後まで読みきったときにはその圧倒的な世界の広がりに非常な感動を覚えたものだ。おそらくはじめてこのような物語に出会う人は、似たような感想を覚えるのではないか。同時に私のように、途中で挫折しそうになることもあると思う。
でも、最後まで読んで欲しい。この本にはそれだけの価値が、それだけの豊かさと深みがある。このゆっくりと、そしてとてつもない規模で展開する物語は、ほかでは味わうことの出来ない感動を味わうことができるだろう。
とかなんとか難しいことを並べてみたり。
SF読むとこういう小難しいこと書いてみたくなるのって私だけですか?ああ私だけですか。そうですか。
でも面白いのは本当です。SFあまり読まない人(自分のことはさておき)も読みづらいのも本当だけど。でもほら、女の子出てくるし。バトルもあるし。ハルヒが読めるならきっともーまんたい。うん。あしゅらおうかわいいよあしゅらおう。
Wikipediaによれば、押井守が映画化狙ってるとか書いてある。まあ天使のたまごとか御先祖様万々歳とかイノセンスが作れたんだし、スカイ・クロラの後また立喰師列伝作るくらいだったら作って欲しいかも。絶対ヒットしないだろうけど。
下手するとそれでIG潰れるんじゃないか。いやむしろIG潰れる前に作らないと、てとこか。
神山健治に託すのもアリかも。もちろんキャラデザは後藤隆幸で。
2008.03.02 | Comments(0) | Trackback(0) | 日々のつれづれ
いや別に書かれても問題ないんだけど。
いまさらだけど、川畑えるきん=川畑栄郎なんじゃないだろうか。
ちなみに川畑栄郎をグーグルさんにほうりこむと、こんな感じ。
2008.03.01 | Comments(0) | Trackback(0) | アニメ・アニメーション
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Author:bigben
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