ネタバレ警報発令中
(この下には壮絶なネタバレが含まれています)
面白かった。
まさか破でこんなにも普通に盛り上がり、感動し、泣きそうになるとは思わなかったので、びっくりしながら観続けていた。あまりにもびっくりして最後のQの意味がしばらく頭に入ってこなかった。シンジくんが格好いい。綾波は一人だ。ミサトさんの「行きなさい、シンジくん!」のセリフは場所が許すならば一緒に叫びたかった。朝から晩まで一日中映画館に行列が出来てるのを見るととても言える状況ではなかったが。
戦闘シーンも多かった、日常シーンは少なかったそうだがもシンジとレイ、アスカのやりとり、まさかの料理対決、ミサトと加持さんとかも、密度が濃かったので気にならない。2時間でものすごい充実感があったのに変にべたついた気持ちになることなく、もう一度観たい、と思った。いやもう一度観たが。
まだまだ観に行きたい。
「シンジくんと一緒にいるとぽかぽかする」には正直観客席からずっこけそうになった。これが庵野秀明の萌かー!でも今時どんな純愛エロゲでもそれはないわー!とか思いつつも、表情には出さなかったが俺の身体全体がにやついていた。ぽかぽか、ってなんだよ。ああ、今分かったがかみちゅ観てた時におんなじ感覚を味わった気がする。やはりこれがこの感覚が60年代生まれの萌え感覚に違いない。おべんと持って好きな子とピクニックしたり自転車二人乗りしたいよね!その気持ちは自分にも良く分かるが、ゼロ年代的感覚としては、無い、ものなあ。
閑話休題。料理うまいとか順調にエロゲ主人公(非童貞タイプ)の階段を駆け上るシンジくん。ここで既にラストの展開のフラグを立ててたのかもしれない。んでマリ。うん好みです。ぶっちゃけ一番。坂本真綾さんはハルヒ、式、クロナと難しいキャラを立て続けに成功させてるなあ。しーあわせはーあーるいーてこーない。このブログ、このタイトルにしといて初めて良かったと思った。別にメガネ属性はありませんが、なんとなくああいうつかみどころの無い女の子は大好きです。底が知れなくて芯が全くぶれないのに当たり前のようにシンジくんを助けるのはとても格好良かった。パンフにもありますが余裕が常に感じられるのが新しい。庵野キャラでは有り得ないけど、あれを作品中に受け入れてること自体が成長、というか。庵野秀明がミスターエヴァと呼ばれていることをパンフで初めて知った(そのあと2ch見て普通に使われてるのに驚いた)が、庵野が出すものは庵野が出すもの。後は僕らの主観がそれをどう受け止めるか。っていう当たり前のことをもう一度考えさせられた。
でもそれって結局のところ展開の白黒は庵野の心情次第なんだよなあ。それこそ不謹慎だけど庵野氏の身内に不幸とかあったらQは大変なことになるんだろうなあ。一刻も早く庵野がハマれるオタクコンテンツを届けるんだ、とかエヴァファンの業界人は真面目に考えてもよいと思います。何が出てきても次も観に行くけど。
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2009.06.28
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だからずーーーーっと言ってたでしょ、俺は。
http://d.hatena.ne.jp/NaokiTakahashi/20090620/p1#tb
「NaokiTakahashiの日記」さんより
家族を失っている朋也は渚に対して家父長的=保守的に振舞うというよりはむしろ依存しているんじゃないだろうか。
汐と旅行した後も父親としての自覚を得た、というよりむしろ依存対象が汐に移っただけで、その本質というか、朋也の弱さは変わっていないように思える。
家族を失って、代わりに打ち込める対象になりうるはずのバスケも出来なくなって孤独にだった朋也は自分を無条件に受け止めてくれる人間を強く欲していたに違いない。
そういう家庭を描く作品では、君臨する夫が妻を奴隷のように扱う場合と威圧的に振舞いつつも実は意識的・無意識的に妻に寄りかかっている作品の二種類に分けられる。で、後者は単純にフェミニズムの文脈だけでは語れない問題をはらんでいる。
つまり特定の個人に全面的に依存しなければならないというのは本質的には他の誰も信用できないという大きな孤独を抱えているのに等しく、自身の存在意味を赤の他人にそっくり委ねているという、一歩間違えれば危機的なアイデンティティーの崩壊をはらんだ非常に不安定な状態にある。
もちろん誰かのために生きる、というのはアイデンティティーのあり方としてはごく当たり前であり、それこそ妻のため、子のために生きるというのはヒトとして至極普通のあり方ではある。だが朋也はそれに辿り着く前にあまりにも挫折や孤独を経験しすぎて、それらを失ったときの反動が非常に大きい。それは渚が汐を身ごもった後も父親になるという自覚が芽生えることなく、渚のことばかり心配していた描写はまさに朋也のそのような精神的な危うさを予見させるような描写である。
さらにいうなら自分より弱い立場の特定の個人に寄りかかりたい、という感情自体は何も男性だけのものではない。草食性男子なんてものが叫ばれているように女性側にも同じような問題は存在する。それこそ独身女性が30代、40代と高齢化するなか、だんだん独りでいる孤独を感じるのは当然と言える。不況を通して派遣者員だけでなく正社員や公務員の仕事量が増加し、日本全体が疲弊している現状も多いに関係があるだろう。
それに対抗する策として小さな共同体を作り、その中の一員として生活することで自己の存在を確立する、というのは保守的ではあるが、一つの解ではある。最近話題の貧困をテーマにした本を読むと、そのような共同体の喪失がダイレクトに個人を打ちのめし、結果貧困層に陥るという流れと、そしてその対抗策として近所や町単位のつながりに変わる新たな共同体を作ろうとする試みが行われていることが書かれている。
そしてそれは単にフェミニズム的な問題ではなく、その裏には人間存在に対する重大な問題が存在し、それは非常に社会的かつ現在進行形で語るべきテーマ足りうる。
と、光の玉集め=他人との繋がることが結果として奇跡を生むというのは非常にゲーム的な解決法に見えて、現代社会においても案外有効な手段の可能性があり、その本質的に現代社会に対する強烈な問題提起をはらんだ部分が、原作から5年経った今のアニメ化しても影響力のあった理由と思うのだが……麻枝准がそこまで自覚して当時このシナリオを書いたようには、正直思えない。普通に作者のやりたいことをやってたら、結果的に非常に現代的な作品になった。そのあたりがクラナドという作品を語り辛い原因ではないか、と思っている。少なくともゲームをリアルタイムでプレイした人と、アニメで観た人では、株価急落とかあった分大分感じ方が違ってる可能性があるんだよな。
2009.06.22
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男の子から見た「けいおん!」、女の子から見た「けいおん!」
http://d.hatena.ne.jp/makaronisan/20090617/1245180537
「たまごまごごはん」さんより
少しの本当を混ぜて、思いっきり嘘をつく
http://low0825.blog62.fc2.com/blog-entry-99.html
布団越しのキミ
http://low0825.blog62.fc2.com/blog-entry-101.html
「0324.com」さんより
中学生のときクララ白書を読んで女の子同士だけの複雑な友情に憧れた身としては、こういう人間関係に思いを馳せる男っていうのはよく分かる。けど今の自分からすればこういうめんどくさいやり取りとか気の使い方とか行動の読み取りかたとか行動と思いのズレとか、そういうのは環境によっては男も女も経験する、というか人間だれしも経験することがありうるよなあ。とか。殴って解決する友情もあれば、言葉すら使わないちょっとした行動のやりとりで元の鞘に戻る友情だってある。そもそも人の感情の発露っていうのが子ども頃感じていたほど単純なものではなくて、それを経験できる、せざるを得ない環境に居たかどうかで、理解できるかできないかが別れたんじゃなかろうか。飲み会での場の空気の読み方とかは、根本的に同じようなことをやってると思う。
逆にとらドラ!6巻なんか、女の子同士のそういうモヤモヤとした感情を殴りあいで解決していて、初めて読んだとき、とても斬新に感じた。こんなシーンがライトノベルで出てくる時代なんだなあと。男女平等とか叫ばれてる今、個人的に芥川賞とかでこんな作品が出てきてもいいかと思っているけど。30過ぎてもアタシまだまだ恋愛現役みたいな作品よかよっぽど。もしかして既に出てるのかな自分が知らんだけで。
些細な感情のやりとりとそうして膨れ上がった想いの弾け方を描くのに、思春期の男女間の一般的な差異を、そのままテンプレ的に使いすぎだと思う。いろんな作品で。
2009.06.21
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