ゼロ年代を代表するアニメ10―karimikarimiさん
こういうネタはこれまで数え切れないほど見てきたけども、そうかもう00年代も終わりなのか、と思ったら無性に自分もやってみたくなった。
ただ流石に作品数が多すぎて、何かテーマを一つ決めないととてもじゃないがまとまる気がしない。
自分が観た中で好きな作品を、というのはよくやられているだろうし個人の嗜好により過ぎて面白みがない。かといってアニメ業界での販売戦略とか技術的に影響力の高そうな作品がリンク先のコメントで結構上がっていたので、それに追従するのもつまらない。ここはあえてライトなアニメファンに影響力の高いものを中心に選んでできるだけスタンダードなアニメを選びつつ、その中で作り手にも視聴者にも製作会社にも影響があったであろうものを選んでみた。もちろん全てを挙げることはできずかなり難しい選択だったが、一本の作品を複数の作品の象徴のように扱うことでなんとか10本に絞った。
で、選んだのは
ガンダムSEEDor鋼の錬金術師
まずは00年代最も影響力があったであろうMBS・TBS土6枠。DVDの売り上げや00への繋がり、富野ガンダムファンどころか平成ガンダムファンとさえも論争を巻き起こした影響力を考えるとSEEDに軍配が上がるが、女性層への影響力は鋼のほうも負けず劣らずあったし、土6枠の作品の評価を決定付けたのは間違いなく鋼のほうではないかと思うからだ。原作付きという利点があったとはいえ、オリジナル展開に入ってなお骨太なストーリーを維持し、かつ演出・作画を含めたトータルクオリティの高さが尋常ではなかった。映画も作っていたのも有利な点の一つか。
AIR
涼宮ハルヒの憂鬱
で00年代後半を引っ張ったのが京都アニメーションの一連の作品。2つも選ぶのは厳しいところだけど、00年代のアニメにおけるアダルトゲームの影響を代表する意味でAIRも入れることに。いとうのいぢと後藤邑子の時点でハルヒでも代用できなくもないといえばないんだけど、ハルヒはそれ以前に重視すべき存在だろう、と。
ぼくらのウォーゲーム!or時をかける少女
もうこの年代のアニメファンにとって劇場アニメは細田守だけでいいんじゃないか、とか思ったので。時をかける少女のほうが比重は大きめなんだけど、この年代におけるデジモンシリーズの大きさを最近とても実感しているでちょっと悩んでいる。宮崎駿と押井守は00年代のアニメファンに的を絞った場合入れる必要はないだろうと。ヱヴァはちょっと悩むところではあるんだけど、00年代とみればやっぱ違うかなと思う。
プラネテス
ぱにぽにだっしゅ!
カレイドスター
新房昭之枠と谷口悟朗枠と佐藤順一枠。プラネテスはサンライズ系のメカ作画と千羽由利子を通して00年代のキーである日常芝居と90年代末期のサンライズ系ハードメカ作画の頂点の意味合いも意味合いもこめて。
新房×シャフト枠を一本挙げるとしたらやはりぱにぽにしかないかと。完成度の高さと知名度の高さとOADの存在とニコニコでの模倣MADの意味合い入れると絶望先生な気もする。サトジュン枠はカレイドスター。当初おジャ魔女どれみを入れようとしていたので監督が被るこれをいれようか迷ってたんだけど、おジャ魔女が99年から始まっていたのをすっかり忘れていたので問答無用にこれを入れた。ARIAとかスケッチブックとか一連のハルフィルム系作品と、なんだかんだ言って作り手原案のオリジナル作品を多く作ったGONZOの作品を代表して、という意味合いもある。本当にGONZOっぽい、となれば巌窟王とか戦闘妖精雪風とかラストエグザイルとかヴァンドレッドとか入れるべきには違いないんだけど、GONZOらしいという意味合い以上のものをなかなか含めづらい……
あとこちらだとケロロ軍曹に繋がるのと、ネットラジオの影響も考慮した。
ふたりはプリキュア!
おジャ魔女どれみとどちらにしようか非常に悩んでいたんだけど、前述のとおりおジャ魔女を入れられないことが分かって問答無用で入れた。カレイドスター=サトジュン枠とセットで00年代の女児もの全て統括する意味合いも。
銀魂
数あるジャンプ枠のなかで一本選ぶとしたら、まあこれだろうと。シャフトと並んでアニメにおけるパロディのあり方を一辺させた作品だと思う。スクランとこち亀、あと釘宮病アニメを一本入れなければならない焦燥感に駆られたのも多少ある。
ひぐらしのなく頃に
最後の一本、迷った挙句にとりあえずこの選択は自分でも納得できない部分がある。選外の作品と常にイーブンの存在確率だと思ったほうがいいかもしれない。00年代においてアダルトゲームの影響と同時に同人からのサルベージというのは非常に大きな要素であってそれを押さえるのとヤンデレというキャラクター、さらに規制問題とか美麗だけど基本動かない00年代ディーン作品とか最も成功したメディアミックスなんじゃないのかとか、そういう諸々を踏まえて一応これを入れることにした。
あーたった10年だというのに難しすぎる。10本では少ない!
で、色々漏れた作品は多数あるわけだが、とりあえず上の作品群のうちいつでも入れ替わりそうなものがこちら。
選外
天元突破グレンラガン
ハチミツとクローバー
NARUTO
蟲師
空の境界
多分上のリストにこれら全部を含めると、最低限この10年のアニメの変化は掴めるんじゃないかと思ってみたり。NARUTOが入ってるのは、ライトなアニメファンでも作画、という言葉は入ってくるだろうから。全部ハイクオリティなら蟲師、顔が違う云々ならグレンラガンで代表できるけど、絵が動くのが凄い!って意識を普通のアニメファンに最も植えつけたのは松本憲生だろうと。空の境界はufotable枠とTYPE-MOON枠を兼ねてる。TYPE-MOONがこれだけアニメ業界にとってのドル箱になるなんて月姫当時は誰も思ってなかったと思う。
さらに選外
魔法少女リリカルなのは
ハヤテのごとく!
ローゼンメイデン
攻殻機動隊 STAND ALONE CONPLEX
NOIR
夏目友人帳
戦闘妖精雪風
School Days
マリア様がみてる
撲殺天使ドクロちゃん
戦国BASARA
うたわれるもの
おおきく振りかぶって
ギャラクシーエンジェル
らき☆すた
オーバーマンキングゲイナー
スクライド
かみちゅ!
桜蘭高校ホスト部
しゅごキャラ!
さよなら絶望先生
犬夜叉
MAJOR
これは上の中と同列ではないけど、忘れられない作品群を突っ込んだ。選外とさらに選外を分けるのがさらに難しい。全然改善の余地があると思う。なのはと水島努がここにしか入れられなかったのが無念。というかなのはがあの位置な気がしない。なら入れろよって話だけど。なんか見てるとどんどん直したくなってくる。20本ぐらいに広げれば収まりそうだけど……
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2009.07.25
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人の意思を汲み取るのは得意だけれど、人に意思を伝えるのはあまり得意ではない。
自分のしたいことを伝えることはできるんだけど、自分の言葉を、自分の感情を伝える術を失っている。普段の生活の中で何も起きなくてもストレスをためてしまう原因はここにあるんだと思う。だけどそれを伝える方法が分からない。自分ひとりではどうにもできない。誰か助けてといってもその気持ちを伝える方法が常にないのである。相手が無理やり気持ちを汲んで行動してくれるような時代はもう終わっている。自分から動き出さなければ何も始まらない。だけども自分ではどう動いていいか分からない。この矛盾をどう解決すればいいのか分からずにここまで2年間やってきた。もう限界なんて言葉はまだ吐かなくても大丈夫だけど、それがずっと続くという保証がどこにもない。自分自身でさえ明日の安心を保証してあげられない。信頼できない。自分のことが。もう終わりにしようじゃないか、そんなことは。そう言ってあげるのは簡単だし実際できると思うんだけど、その一歩先が何も見えない。そんな中で湧き出る言葉に何の価値があるというのか。その価値すら信じられない。何も信じられない。こんなにも信じたい自分がいるのに。はちきれそうなほど生きたいと願っているのに。なんでいつもこうなってしまうのか。
スパゲティを食べる。腹が膨れる。大分落ち着いてきた。このあたりで自分が世の中に絶望して自分や人を殺めるほど妄想にとらわれる人間でないことを改めて思い知らされる。そっちの方がもちろんありがたい。それと同時にこれを書く気力がなくなってくるあたり、自分は本質的にものを伝えることが嫌いな人間なんだと実感してもいる。そもそも好きだったらこんなに引きこもっていないというか、引きこもってることにもっと意味が持てると思う。今やってることが単純に人と会いたくない、一人でいたいというただそれだけだから。伝えること、表現するのが好きなら一人で行動したいから一人になるというシンプルな理由になると思う。それがシンプルでないのが自分の最大の問題である。これがあるからこそ自分は他のことに目を向けられない一方で、この文章を書く原動力、そして生きていく理由そのものにすらなっているのがさらにやっかいである。
いまふと気づいたのだけど、これは自分に依存しているということなのか?自分に依存しているというのはひどく矛盾した表現に聞こえるけれども、自分という存在を仮想化しつつ、その仮想化した自分自体に依存するという全く自己完結した状態になってるんじゃないだろうか私は。これは全く他人には害は及ぼさないけども、自分という枠の中で生きている以上何も先に進まず、何も変化が起きないままである。一瞬自分という殻の中に閉じこもっているというありきたりな解釈をしてしまいそうになったが、これは少し違うのかもしれない。自分の世界のみ目を向けるというだけでなく、依存しているというのが非常に重要なポイントで、この言葉に私は納得してしまうのだ。これはどういうことを意味しているのだろう。
依存しているというのは誰かに何かに頼っているということ、自己の存在理由を自分で引き受けず外部に委ねてしまうということだ。自分の生きる力を他人の生きる力と重ねてしまうことだ。生きる意味、現在の人生目標を人まかせにしてしまうなんて生易しいものではなく、本質的には他人の生きるエネルギーに寄生している、というぐらい非常に危ないことではないかと私は思っている。他の人に生きるエネルギーを分けてもらう、自分が大変なときに他の人を力を借りるということはヒトとして全く真っ当な方法である。それは生きるための智恵であり、正しく賢い方法である。だけどもその他人の力だけで生きるというのはどうだろうか。仕事にしろ遊びにしろ、人間一人ではできないことのために他の人の力を借りるのではなく、他の人のあり方と自身のあり方を同じものとみなしてしまうのは決して良くないことだと思う。あなたはあなたで、私は私。そういう人間関係こそが正常で、あなたとわたしがまったくの同じになるような状態を、少なくとも一生続けることは自分を傷つけるということにつながりはしないか。自分という要素を無理やりバラバラに解体し、それを相手に合うよう組み換えているということではないのか。
ここでまた少し疑問が出てきた。自分はどこにいるのか。自分の気持ちがたとえ相手と同一視されようとも、たとえば自分の肉体自体がこの世界にあれば自分は存在しているという立場ならどうだろう。自分の肉体さえこの世界に存在していればそれだけで自分の存在が保証されている。あとは自分の気持ちがどうあろうと自分自身は確かにここに存在している。このような唯物論的結論に至れば相手に依存していようが依存していまいが同じ、たとえ自分の肉体は全て相手のものと捧げてみたとしても、肉体がそこにある限りそれだけで相手と自分は違う存在。自己は永遠に自己であり、他者は永遠に他者である。その前提を覆すことは不可能と言える。
こうすればものごとは酷く単純なものとなるのか。自分は自分だ、自分はここにいるとどれだけ叫ぶ必要もない。ただそこにあるだけで自分はいる。それだけが自分を保証する全てとなりうる。それはとても穏やかな結論だ。そうすると自分に依存していようがいまいがどうでもよいということになるが、しかしそれは何かが違うと自分の頭の中で声が響く。なんだろうか。
それは自分の肉体の保証すらも時に失われる、という現実的問題だ。人間の体は永遠ではない。死というものを実感するには私はまだ若い、といってもいくつか大きな病気をしているから他のひとよりはそういうものに対する実感は持っていると思うが、それでも老いて死ぬ、肉体の限界時間をほかでもない自分自身にまざまざと見せ付けられる、そんな年ではまだ無い。だけどもこの人体という非常に高度な組織的構造を持った物体は、ほんのちょっとの変化で簡単に狂ってしまうのだ。人体は外的内的問題を非常に複雑かつ精密なやりとりで常に平衡状態に保ち続けることができるのだが、これは静的ではなく動的な平衡である。最終的に一本線に戻ってきたとしても、そこには大きな波もあれば小さな波もあり、ともすれば大きな波がより大きな波になることだってある。目に見えなくとも人は常に変化している。調子の悪い時だってあるのだ。
少し回りくどい話をしたが、自己の存在を根底で保証してくれる肉体ですら、常に変化しているということだ。だからこそ自己の存在は時に揺らぐ。これを生物学的に肉体の変化が脳内刺激やホルモンの変化に繋がると解釈してもよいし、肉体と精神の直結から肉体の変化がすなわち精神の変化となりうるのは当然のことだとさも普通のことのように受け止めても構わない。とにかく肉体に自己の存在を委ねたとしても、それは自己の存在を常に保証し続けてくれるわけではない。不安を呼び起こされる可能性は常に存在しているのだ。
だからこそ人は肉体だけに頼らない。色々なものに自己の保証を求める。その過程で結果として誰かに保証を求めすぎるようになり、それが結局他者への依存に繋がる。自分に依存しているというのは、自分という存在に保証を求めすぎているのだ。肉体でないカタチだけの自分に。自分の意識の中にしか存在しない自分に。自分の思いしだいでいくらでも変化しうる存在に。そんなもの何の保証もしてくれないじゃないか。それなのにどうしてこうすがりついてしまうのか。そんなに他のモノが怖いか。苛立ってもしょうがないが、しかしどうしてもそれは自分の本音なので思わず書いてしまうのだが。
ここまで書いてきて、自分があんまりにも自己の保証にこだわっていることに思わず笑ってしまう。表情というより心の奥底が明るくなるような感じ。自分がこんなにもちっぽけなことに捕らわれているなんて。それほど自分が変わるのが怖いのか。ここまでくると、今の自分が抱える問題が自分が自分でなくなるというのが怖いなんて高尚な理由で無い気がする。単純に自分の現在が嫌なだけか?変わるのが怖いんじゃなくて、変わる方法が正しいか、変わる方向が正しいかを保証してほしいだけなんじゃないか。だから誰かに変えてほしい、失敗したくないし、失敗したときの責任を誰かに押し付けたいだけなんじゃないのか。これは本当にちっぽけな悩みだな。普通に人に話したらキョトンとされるか呆れられるか、はたまた無視されるか。この年で自分は本当につまらないことに悩んでいるんだな。ちょっとこれは気が滅入る。
延々と馬鹿馬鹿しい、けれどどうしようもなく本気なことを書いてしまった。とりあえずいったん筆をおく。
2009.07.25
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自分に正直になるのが一番ストレスをためない生き方だと思うが、それは単純なことではない。自分に正直になるというのはとても難しいことだから。単純に周りの環境が許してくれるかどうかというのもあるが、自分の気持ちを正しく見つめることが出来ない人がいる。こっちのほうが大変である。現在の自分だが。それが何故見えなくなるかというのは色々な理由があると思うが、自分の場合は10代でのある出来事だ。つまらない話ではあるけれどこういう明確に過去の出来事に起因、もしくは過去の出来事の積み重ねに引きづられて起きている負け犬意識というのは非常に強固で、どれだけ努力しても自分にべったりとまとわりついてくるのだ、というのを今週嫌というほど実感してしまった。
2009.07.25
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動画の最後のほうのコメントにあったけど、みんな自分の年代のゲームしかやらないよね、って話。
大学来てつくづく実感したけど、過去のゲームに手を出す人はそうそういない。5年くらいのスパンで一気に分からないゲームが増えてる感じがする。自分の年代である00年前半のエロゲ本数とそのプレイ時間が異常だったせいも大きいか。00年代前半はエロゲの成熟期だと思うけど、各ソフトの大作化が進んで過去の名作に触れる余裕がなくなったのも断絶が早まってる理由だと思う。その昔は一本10時間ぐらいだったとか偉大なる先人に言われても自分にはピンとこない。
元データのサイトでトップ10作品の具体的なグラフを見た。データ数は作品によってバラバラだとはいえ、こんな閉鎖的なプレイヤー層の中で圧倒的な支持を受けるその熱気に凄まじいものを感じた。この熱気こそがアダルトゲームというニッチ市場を支えているものだということを改めて思い知らされた。
ここで疑問なのだが、この熱気は具体的にどのように作り手側に回るモチベーションにフィードバックされているのだろうか。学生時代にこうした名作に触れ、そして自分もアダルトゲームを作りたい、と思って行動に移す人ってどれくらいいるのだろうか。専門学校とか行く場合も高卒で決める場合が多いと思うが、それなら中高生のうちにアダルトゲームプレイしなければならないことになる。ゲーム・イラスト系の専門に行ってからハマって進路を決めるか、浪人中や大学でハマって直接ないし専門を経た後入るのか。シナリオなんかは自分が書きたいものが一般では書きづらいから、っていう理由が以前は結構あったけど、今はラノベの窓口がかなり広くなってるしそっちに人が取られてしまうかもしれない。他業種から人がどんどん移ってきてそれで業界が回ればよいけれど、やっぱりアダルトゲームに来たい、この業界で作品を作りたい、っていう熱意を持って入ってくる人がいたほうが健全ではあるし、そのあたりいかに熱意ある新人を確保していくかも案外課題だったりしてくるのかもしれない。
2009.07.25
| Comments(0) | Trackback(0) | 日々のつれづれ
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