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日本の経済成長率

自民は景気が回復した後、消費税の増税を含めた税制改革を行うと主張しているが、その景気が回復したかどうかの判断は経済成長率が2%になることだそうだ。

《にっぽんの争点:財源》消費増税か 予算見直しか

それが達成できるのかなと思ってネットで検索してみたんだけども

経済成長率の推移―社会実情データ実録より


そもそも経済成長率自体これだけ下がってることに驚いた。好景気だったという2004年あたりでも2%しかないのか…中国に追い抜かれてるってもの納得できる。

中国の実質経済成長率(GDP成長率)推移

そして去年の成長率ってこんなに低かったということに、今更ながら戦後最大の不況というのは嘘ではなかったんだと思い知らされた。

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2009.08.19 | Comments(0) | Trackback(0) | 覚え書きいろいろ

セカイ系ってのがもう古いんだろうけど

ばるぼら × 四日市 対談『ヱヴァンゲリヲン新劇場版 : 破』【前篇】

ばるぼら × 四日市 対談『ヱヴァンゲリヲン新劇場版 : 破』 【後篇】


>セカイ系を、まず〈「君と僕」の関係が世界そのものの存在を揺るがすもの〉と定義して、それを「君と僕」の外の人達が知っていたら・知ったとしたらどうするのかな、と。
>「君と僕」の破局も避けようとするし、「君と僕」?がくっつくことも避けようとするんじゃないですか。
>世界が終わってしまうし、物語が終わってしまうから。
>第三者が「君」か「僕」にどんなに惹かれても退く。やはり世界が終わってしまうから。


キョンとハルヒがキスした後も結ばれることなくまた元の日常を続けるのはそういうことだったのか。谷川流がセカイ系を意識してハルヒを書いたってのはどこかで聞いたことがあったけど、単なるパロディにしかなってないと思っていたけど、こういうことを考えてたなら納得。どれだけハルヒがキョンの気を惹くため世界を改変しようと、破局を防ごうとキョンがどれだけ努力したとしても彼等は世界平和のためにくっつくことも離れることも出来ない。考えてみたらこんなに哀しい関係はないよな。二人の祝福も離別も認められないということは、つまるところ愛情も憎悪も全世界に否定されてるっていうことだから。

プリンセスチュチュの2クール目ラストを唐突に思い出したり。全世界=ドロッセルマイヤーの支配を乗り越えようとする話だったし。



キョンがハルヒに興味をなくして世界が崩壊するラストというのはどうだろうか

ハッピーエンドなら何回繰り返して、皆が説得してもキョンがSOS団を辞めて世界が崩壊するエンドを迎え続けて、ついにハルヒが自分でキスを帰してエンド。

今更?こんなの絶対誰か考えてるよな…

2009.08.17 | Comments(2) | Trackback(0) | アニメ・アニメーション

数年前とは偉い違いだ

部屋の整理してたらとある同人誌が出てきたんで久々にホームページ行って、リンクから知ったとあるアニメーターさんのブログが今日見たら消えてた。昨日見たばかりだったのに……

と思って履歴みたら普通にいけた。最初どっからいったんだろう自分。

作画語ることすら最近物騒なんで伏せまくりだけど。
アニメーターで壁サークルまで成長とか時代は変わるものだな。

2009.08.13 | Comments(0) | Trackback(0) | アニメ・アニメーション

ケータイ小説とプロットデータベース

「ゼロ年代の批評」のこれから──宇野常寛さんロングインタビューCommentsAdd Star―荻上式BLOGさんより


以下「荻上:」とあるのを除いて宇野氏の発言

>例えばライトノベルというのも文体はない。変わりにキャラクターが肥大しているわけです。ケータイ小説の場合は、肥大している要素はプロットなんです。



>逆に言えば、プロットしかない。ちょっと遠回りな話になりますが、オタクの人がなぜ空気が読めないかというと、東さんとか伊藤剛さんの話って究極的にはキャラクター理論なんですよ。キャラクターというのは設定がすべてで、「○○した」ではなく、「○○である」がすべて。トラウマを負っていて、何が好きで、どういう喋り方をしてと。そしてキャラクターというのはどんな物語に登場しても丹下左膳は丹下左膳、ハルヒはハルヒとして揺るがないんです。

>ところが実際の人間のコミュニケーションって、例えばキレンジャーはデブで陽気な人間がなりやすいというイメージが世間一般にありますが、デブで陽気な5人だけ、例えば伊集院光、内山君、ホンジャマカ石塚、松村邦弘くんとかの中に新しくデブで陽気なキャラを入れたら、誰が黄色になるかはわからないわけです。あるグループにいけば、クールで知的な青レンジャーかもしれない、あるグループにいけばリーダー気質の赤レンジャーになるかもしれない。

>でもこれって超常識で、いまさらいうようなことでもないですよね。でもオタクをオタクをたらしめている部分ってここだと僕は考えている。つまりオタクは、キャラクターが物語から独立して存在するということを、この3次元の世界でも信じている人たちなんです。だから彼らが浮くのは、自分の中で出来ているキャラクターを、あらゆる場面で通用させようとするから浮いてしまう。

>ケータイ小説って、逆に言えばキャラクターが存在し得ない空間なんです。

>荻上:キャラクターのデータベースの代わりに、プロットのデータベースがある。オタク文化とケータイ小説、そのある種の反応構造は近いものを感じているのだけれど、引き出されるものは大きく異なるのが面白い。

>ケータイ小説は人間の外側にあり、ライトノベルは人間のキャラクターにあると。で、今の時代にケータイ小説が強くなるのはしごく当然のことで、島宇宙化時代(注)には、キャラクターというのは棲み分け易いけれど通りづらい。


(注)島宇宙化時代というのは宮台真司が用いた言葉で、次のような意味らしい。

>消費ジャンルが細分化するにしたがって、人々の間に「どういう音楽を聴いていれば、どういう物語を解釈しているのか」に関する「共通知識」をアテにすることができなくなり、「単純に自分が聴いていて気持ちいいかどうか」という身体的な「快/不快」原則に従って消費を行うようになった

第24-3回【同期性考察編(7)】現代のメディア環境は、同期と非同期の「二層構造」である



今のオタクと呼ばれる人々がキャラクター理論で作品はおろか、作品の周囲や作者自身、そして現実までをも捉えがちで、それが空気を読めない、コミュニケーション不全の理由だというのは今更だけど、ケータイ小説を肥大化するプロットと見抜き、それをキャラクター理論で世界を見るオタクと対比させて「今の時代にケータイ小説が強くなるのはしごく当然」というのが面白い。

そういえば「Deep Love」も「恋空」も実話って設定だったよな。これは実際に起こった話です、という前提があるから、起こった出来事が積み重ねられる一方で登場人物の心理描写が希薄な、あたかもプロットのような文章が出来上がるのではないだろうか。現実に起こったことだから、実際登場人物たちがどういう風に考え、感じ、行動したのかは本人に聞いてみないとわからない、というわけだ。そうやって登場人物のアイデンティティーが薄まることで、読み手は自分の経験に一番合致する登場人物に感情移入する。それは友達の体験話を聞いて「自分だったらどうだったろう?」と考えるようなものだろう。ケータイ小説がフォークロア的と呼ばれる意味が今更ながら分かった気がする。

そういう面では2ちゃんねるのまとめサイトなどはケータイ小説的なプロットデーターベースの部分もあるし、一方でオタク的なキャラクター性重視の部分も強い。虚構と現実がないまぜになっている。今の2ちゃんねるにはリア充もオタクもいるし、はてなとかtwitterやってる人でも、少なくとも日本国内でネットやってる人間は2ちゃんねるを無視することができない。2ちゃんねるがこれだけ巨大な媒体と化したからこそ両極端な2つの方向性が一緒に存在できるんだと思う。でもそれって極当たり前な作劇のあり方なんじゃないの。

作品のストーリーや世界観には少なからず現実の体験や論理が反映されていて、そこで動く登場人物のドラマを描かれれば、それがどれだけ真に迫ったように感じられてもその登場人物は虚構のものであるはずなんだけど、ネットのもつ匿名性とデータベース性によってそれらの一方が極端に無視されても話が作れる、受け入れられる環境が成立することでキャラクターとプロットのデータベース化が容易になったことが、現在のキャラクター性を重要視するライトノベル、もしくはケータイ小説が生まれた原因ではないのか。キャラクター性に重きを置くのか作中で起こる現実に重きを置くのかは、作者を取り巻く環境に起因するというとつまらないけど、事実だろう。



ここで書いた現実というのはどちらかと言えば個々の日常生活の蓄積によるものという意味寄りで自分は使っているのだけど、本当は前に90年代と00年代で書いたような現実の経済事情や社会問題も本当は影響していて、それこそオタクもリア充も共に体験している時代性、共通認識で、2ちゃんねるとかで両者を繋ぐ認識って不況で暮らしが大変ってことぐらいじゃないか、とか思ったんだけどこの辺よくまとまらない。

2009.08.10 | Comments(0) | Trackback(0) | 覚え書きいろいろ

京都アニメーションと泣きの芝居

京都アニメーション作品の泣き顔が半端ない―【2ch】ニュー速VIPブログ(`・ω・´)




言われて見れば、京アニ作品って泣き芝居がやたら多い。key原作ばかりってのもあるんだろうけれど、センチメンタルな泣き、痛々しい泣き、嬉し泣き、悔し泣き、泣き笑い、ギャグシーンでの泣きと、バリエーションに飛んでいるのが特徴的。日本の文学作品における泣き表現のバリエーションの広さは特筆すべきものがあるとうちの大学の文学部の准教授が言ってたな。





Clannadはアフター含めて、重要な泣きシーンのある回はほぼ堀口さん作監回だなって気がしてたけど、上の画像みるとそうでもないか。



コメントにあったけど、表情が大きく崩すことが多いから、静止画で観ると痛々し過ぎるように思えるんだろう。自分は逆にことみがバス事故でショックを受けて泣き出すときとか、AIRで観鈴が癇癪で泣き出すシーンのメンヘル感とかは動画で見たほうが辛かった。原作ではそこまで痛々しくは感じなかったんだけど。AIRで観鈴が癇癪で泣き出すシーンとか、ああいう演出が入るとそりゃ出崎AIRみたいな奇跡で観鈴が救われることはないと思わされてしまう。

ヤンデレというか、メンヘル的な部分のある美少女キャラってアニメでたくさん出てきたと思うんだけど、ああやって感情が幼児退行化しながら泣くというのをビジュアルで表現してくるのは京アニならではの表現だと思う。むせる仕草なんかを逃げずに描いてるからそういう印象を受けるんじゃないだろうか。映画だとジブリとか時かけの真琴とかいるけど、テレビシリーズという時間的制約と美少女という技術的制約(Key作品にいたっては元はいたる絵だし)のなかでそういう芝居を描くっていうのは、日常芝居に自信があってスケジュールも確保できて社内に全部署が揃っている京アニだからこそ出来るというわけだ。美少女もので顎の皮が引きつきながら芝居するの描くのとか、TVでやるのはぱっと思いつく限り細田直人氏とかなんだけど、それでもここまで徹底していない。


人はなぜ泣くのか


>「泣く」には、大きく分けて、“cry”と“weep”の二つの種類がある。“cry”は、声をあげて泣く、“weep”は、涙を流して泣くというように区別されている。

この分類を使うと、京アニは"cry"も"weep"も描くけど、"cry"をきちんと描くのが京アニだということか。どちらもアニメで表現するには難しいのは変わらないけど。




ついでにリンク。たまたま見つかったので。


2ちゃんねるAIR総合まとめ
カラフル・ピュアガール 2001年3月号 Keyシナリオスタッフ ロングインタビュー


昔プレイしたとき見ろ見ろ言われてたけど、結局見るまで9年近く経ってしまったな。思ってたよりめちゃめちゃ情報量があるんで、これについてはまた日を改めて書きたい。

2009.08.09 | Comments(0) | Trackback(0) | アニメ・アニメーション

90年代と00年代

「失われた10年~Lost Generation?」
「失われた10年~Lost Generation Part2」



たまたま見つけた文化系トークラジオLifeというラジオのまとめ記事



鈴木:運命って若い人たちの間でキーワードになっていて、それは、自分の今の状況を「仕方ない」って受け容れるには、すごくいい装置なんですよね。スピリチュアルとか、オカルトものって、前世とかオーラとか持ち出されると納得しちゃうじゃないですか。でも、納得してちゃだめなんだ、っていうのがセカイ系とか古谷実。それはきっと、庵野監督がエヴァンゲリオンでやろうとしてできなかったことなんですよね。庵野はオタクの自閉から飛び出て外に出ろって言ったんだけど、通じなかった。で、いつの間にかその中で組み合わせを変えて楽しめるようになっていた、っていうのが、東浩紀さんの「動物化するポストモダン」の骨子ですよね。
でも、その組み替えの遊びの中から、どうしても失いたくないものを見つけてしまったとき、人はやっと運命と向き合うことができるようになる。それを「成長」って呼んでるんだと思うんです。だから村上春樹が成長だって思って「海辺のカフカ」の中で提示したものとは違うんだけど、でも若い子たちも成長したいと思ってるんだと思う。




90年代~00年代の変化で自分がつかめてなかった部分が書かれていて衝撃を受けた。

>でも、その組み替えの遊びの中から、どうしても失いたくないものを見つけてしまったとき、人はやっと運命と向き合うことができるようになる。それを「成長」って呼んでるんだと思うんです。

このあたり

そもそも庵野監督自体が友達たくさんいるから言える、たとえ出来ないことがたくさんあってもその足りない部分を支えてくれる人がいるんだ、と思っている。新ヱヴァでも友情パワー集めまくっているわけで。

コミュニケーションが必要だって言ってる人ってしばしばその人自身わりと人脈持ってたりして、そのあたり本当にコミュニケーションを欲している人に言葉がきちんと伝わらないという問題があるような気がする。

ともあれ90年代の文化についてこれほど広範囲に語っている文章って最近見なかったし、ポッドキャストもやってるようなのでこれから聴いていこうと思う。

2009.08.08 | Comments(0) | Trackback(0) | 覚え書きいろいろ

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