タツノコテイカー。
『タツノコファイト』というゲーム中のOPと、ゲーム内オリジナル作品『電光石火ヴォルター』のOPを切り貼りして、ソウルテイカーのOPにあわせたMAD。
個人的には、新房昭之の魅力が最もわかりやすく伝わるMADだと思っている。
端的に言えば、絵画的なレイアウトと、BL影を用いた極彩色の色使いの中、山下調でバリバリ動かすのが本来の新房演出の魅力だと思う。
この場合の「絵画的レイアウト」というのは、実写のような「カメラのレンズを通してみる」ことを計算していないレイアウトだ。レンズによるパースの歪みを計算して画を作るのではなく、レンズパースの情報が織り込まれた絵を描く。レンズによる歪みは前提ではなく、欲しい絵に必要な要素の一つに過ぎない。
画ではなく、まず絵を見せるのだと。そういう姿勢が貫かれているように思う。レンズを気にする必要のないデジタル撮影に切り替わったあとも、直接PCをいじることなくその能力を発揮しているのは、そのためではないか。
新房自身は山下を「自分の中で最高のアニメーター」と言ってるから、動きだけでなくBL影の使用もそこから始まってミニョーラに行き着いたんじゃないかと思っていたんだけど、よく考えてみれば、そもそも80年代のアニメブームの中で、いわゆる金田系の作画をする人たちがBL影を使うようになったのがミニョーラの影響かもしれない。このあたりはリアルタイムでアニメブームを経験した人しか実際のところはわからないだろうなあ。
以前、新房昭之の止め多用のルーツをエヴァに求めているエントリをみたことがあるけど、エヴァの止めは、あくまでフィルムの発想から来たもののように私には思える。もしくは、幾原邦彦のように演劇から来たものか。
ただ、止めの絵のセンス自体はともかく、止めを使っていく理由はここ一番で枚数使って動かすのに枚数を抑えるため、っていうのも計算してはいるだろう。最近見返したTV版ヤマモト・ヨーコの1話は、Aパートを歪な構図やパースの止めでひたすらもたせていたが、あれはBパートの戦闘シーンで大量に枚数を使うための処理にも思えた。幽白の担当回であれほど枚数を使ってるのだから、動かすことが嫌い、ということはありえないだろう。
そういえば今石洋之も山下系なのだけど、どちらかといえば私は新房の方が好きかな。なんとなくだが、この方向性の違いは、今石洋之が動きそのものに興味を覚えたのに対し、新房昭之はBL影などのグラフィカルな部分に惹かれたせいでは無いかと思う。
余談だが、監督としての今石洋之と新房昭之の最大の違いは、萌えを理解できるかできないかじゃないだろうか。
新房自身はアニメスタイルのインタビューで、「萌えは理解できない」っていってたけど、ぱにぽにだっしゅのファンブックで『まろまゆ』の妙子が好きって言ってたのを見て、深層心理内では理解できてるんじゃないか、などと思った。
2008.03.21 | Comments(2) | Trackback(0) | アニメ・アニメーション
