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ケータイ小説とプロットデータベース

「ゼロ年代の批評」のこれから──宇野常寛さんロングインタビューCommentsAdd Star―荻上式BLOGさんより


以下「荻上:」とあるのを除いて宇野氏の発言

>例えばライトノベルというのも文体はない。変わりにキャラクターが肥大しているわけです。ケータイ小説の場合は、肥大している要素はプロットなんです。



>逆に言えば、プロットしかない。ちょっと遠回りな話になりますが、オタクの人がなぜ空気が読めないかというと、東さんとか伊藤剛さんの話って究極的にはキャラクター理論なんですよ。キャラクターというのは設定がすべてで、「○○した」ではなく、「○○である」がすべて。トラウマを負っていて、何が好きで、どういう喋り方をしてと。そしてキャラクターというのはどんな物語に登場しても丹下左膳は丹下左膳、ハルヒはハルヒとして揺るがないんです。

>ところが実際の人間のコミュニケーションって、例えばキレンジャーはデブで陽気な人間がなりやすいというイメージが世間一般にありますが、デブで陽気な5人だけ、例えば伊集院光、内山君、ホンジャマカ石塚、松村邦弘くんとかの中に新しくデブで陽気なキャラを入れたら、誰が黄色になるかはわからないわけです。あるグループにいけば、クールで知的な青レンジャーかもしれない、あるグループにいけばリーダー気質の赤レンジャーになるかもしれない。

>でもこれって超常識で、いまさらいうようなことでもないですよね。でもオタクをオタクをたらしめている部分ってここだと僕は考えている。つまりオタクは、キャラクターが物語から独立して存在するということを、この3次元の世界でも信じている人たちなんです。だから彼らが浮くのは、自分の中で出来ているキャラクターを、あらゆる場面で通用させようとするから浮いてしまう。

>ケータイ小説って、逆に言えばキャラクターが存在し得ない空間なんです。

>荻上:キャラクターのデータベースの代わりに、プロットのデータベースがある。オタク文化とケータイ小説、そのある種の反応構造は近いものを感じているのだけれど、引き出されるものは大きく異なるのが面白い。

>ケータイ小説は人間の外側にあり、ライトノベルは人間のキャラクターにあると。で、今の時代にケータイ小説が強くなるのはしごく当然のことで、島宇宙化時代(注)には、キャラクターというのは棲み分け易いけれど通りづらい。


(注)島宇宙化時代というのは宮台真司が用いた言葉で、次のような意味らしい。

>消費ジャンルが細分化するにしたがって、人々の間に「どういう音楽を聴いていれば、どういう物語を解釈しているのか」に関する「共通知識」をアテにすることができなくなり、「単純に自分が聴いていて気持ちいいかどうか」という身体的な「快/不快」原則に従って消費を行うようになった

第24-3回【同期性考察編(7)】現代のメディア環境は、同期と非同期の「二層構造」である



今のオタクと呼ばれる人々がキャラクター理論で作品はおろか、作品の周囲や作者自身、そして現実までをも捉えがちで、それが空気を読めない、コミュニケーション不全の理由だというのは今更だけど、ケータイ小説を肥大化するプロットと見抜き、それをキャラクター理論で世界を見るオタクと対比させて「今の時代にケータイ小説が強くなるのはしごく当然」というのが面白い。

そういえば「Deep Love」も「恋空」も実話って設定だったよな。これは実際に起こった話です、という前提があるから、起こった出来事が積み重ねられる一方で登場人物の心理描写が希薄な、あたかもプロットのような文章が出来上がるのではないだろうか。現実に起こったことだから、実際登場人物たちがどういう風に考え、感じ、行動したのかは本人に聞いてみないとわからない、というわけだ。そうやって登場人物のアイデンティティーが薄まることで、読み手は自分の経験に一番合致する登場人物に感情移入する。それは友達の体験話を聞いて「自分だったらどうだったろう?」と考えるようなものだろう。ケータイ小説がフォークロア的と呼ばれる意味が今更ながら分かった気がする。

そういう面では2ちゃんねるのまとめサイトなどはケータイ小説的なプロットデーターベースの部分もあるし、一方でオタク的なキャラクター性重視の部分も強い。虚構と現実がないまぜになっている。今の2ちゃんねるにはリア充もオタクもいるし、はてなとかtwitterやってる人でも、少なくとも日本国内でネットやってる人間は2ちゃんねるを無視することができない。2ちゃんねるがこれだけ巨大な媒体と化したからこそ両極端な2つの方向性が一緒に存在できるんだと思う。でもそれって極当たり前な作劇のあり方なんじゃないの。

作品のストーリーや世界観には少なからず現実の体験や論理が反映されていて、そこで動く登場人物のドラマを描かれれば、それがどれだけ真に迫ったように感じられてもその登場人物は虚構のものであるはずなんだけど、ネットのもつ匿名性とデータベース性によってそれらの一方が極端に無視されても話が作れる、受け入れられる環境が成立することでキャラクターとプロットのデータベース化が容易になったことが、現在のキャラクター性を重要視するライトノベル、もしくはケータイ小説が生まれた原因ではないのか。キャラクター性に重きを置くのか作中で起こる現実に重きを置くのかは、作者を取り巻く環境に起因するというとつまらないけど、事実だろう。



ここで書いた現実というのはどちらかと言えば個々の日常生活の蓄積によるものという意味寄りで自分は使っているのだけど、本当は前に90年代と00年代で書いたような現実の経済事情や社会問題も本当は影響していて、それこそオタクもリア充も共に体験している時代性、共通認識で、2ちゃんねるとかで両者を繋ぐ認識って不況で暮らしが大変ってことぐらいじゃないか、とか思ったんだけどこの辺よくまとまらない。

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2009.08.10 | Comments(0) | Trackback(0) | 覚え書きいろいろ

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