京都アニメーション+井上俊之の話の続き
また日が開いてしまった。ちゃんと習慣づけしないとなあ。
なんか夏に京アニ批判っぽいことを書いた後でらきすたを観て、京アニを好きになりましたよ。いや嫌いなわけじゃなかったんだけど。
今まで観た京アニ作品の中では一番面白い。ヤマカン監督の時も、交代後も好きです。
らきすた観て気が付いたんだけど、京アニの作画の方向性は
まず基点として木上益治の「シンエイレイアウト+うつのみや調の動き」
があって、
それに加えてここ数年元請をするようになる中で、「他の(TV)作品では書かない日常芝居」を描くようになり、元々女性比率の多い会社だったので色々他の会社では観ない芝居を観られるようになった、という流れで今に至ったんじゃないだろうか。スカートを一々押さえて座ったり立ったりするのとかは分かりやすい例だと思う。
他では描かない芝居を描く、ていう方向性は、自分の知識の中で思い出すのは高橋ナオヒト・千羽由利子コンビ。それが無くても気にしないというか、逆にアニメなのにそこまで描いちゃうせいで逆に気になる、っていうぐらいに拘ってる感が特に。
ここ数年色々な日常芝居アニメが出ていて、それこそ「電脳コイル」なんていう超大作がやってるわけだけれど、そういう作画はどちらかというと目に映える作画、井上俊之が言う「ちょっと格好良い」動きってやつだと思う。
アクションが得意な人たちが、そのアクションを描くための動かし方を利用して日常芝居を描いてるのかなあ、とも思ってるのだけど。
京アニの日常芝居作画は、「それを描くか!?」ていうので目に付くんだけど、逆にそういう興味しか持てなくて、動きそのものに快楽を感じることがあまり無い。
もちろんそういう方向性もありで、そのつまらなさをそのまま画面に反映させず、逆に演出に変換する必要性があるわけだけど、そういった京アニの作画の方向性を生かした演出っていうのが、今まであまり感じられなかった。自分は。
らきすたは、ちょっとつまらないかな、と思う瞬間もままあるんだけど、グレンラガンでロボ作画が暴走してるみたいに、内容の暴走と共に、地味な日常作画そのものをやりたい放題やってる風に見えて、それでつまらなさを感じない。
フルメタなんかはそれこそ「ちょっと格好良い」動きの方が分かりやすく楽しくなったんじゃないだろうか。特にメカとか。ハルヒはヤマカンが頑張っていたと思うし、ライブアライブは京アニの真面目な仕事ぶりが無いと面白くなかっただろうし(まなびはやっぱりちょっと軽いと思った。あの作品にはあれくらいがちょうどいいと思うけど。)自分は大好きだけど、TV放映時の最終話はちょっと辛かった。一気に盛り上がるシーンでのテンションのピークが、やっぱり低く感じた。
そういうときにフリーで活躍する凄腕や、違った発想を持つ外部の演出家がいれば、また変わるんじゃないかなあ、という風に感じていたのでは無いだろうか。あの時の自分。
まあ、京アニにも本当に動きが面白くない人と、面白い動きが描けるんだけどあえて抑えてる人もいるように思えるせいもありますが。
今はらきすたのようなアニメなら全然文句ありません。あとつい最近CLANNADをプレイしたのだけど、これは本当に京アニの作画が重要になるアニメだと思う。特に後半。つまらなくて地味な作画じゃないとあの後半は生きてこないんじゃないだろうか。
井上俊之個人の方向性に追従する必要は、今更だけど全くないですね。
Aプロやディズニーという理想も、プロフェッショナルとしての意見も加味されてるわけで、迂闊に口を挟めない感もあるし。
ただ90年代に純粋な一視聴者としてTVアニメを観ていた自分としては、劇場アニメの技術史だけでなくて、90年代のTVアニメの技術史と、それが今にどう繁栄されてることが気になってたりするんだよなあ。
90年代以降劇場作品ばかりやってたせいなのかもしれないけど(本人もそう言ってるし)、90年代のTVアニメにももう少し色んなアニメーターが居たんじゃないか、とアニメスタイルで井上俊之が挙げたリストを見て思う。
2007.10.10 | Comments(0) | Trackback(0) | その他もろもろ
